
この場所は大永二年(1522)に若狭の守護武田元光が守護館とした場所で、周囲の地下には濠がめぐらされているそうです。慶長五年(1600)京極高次が雲浜(うんぴん) に小浜城を築城するまでは、この地が小浜の政治の中心地でした。
空印寺はもと泰雲寺といい高極忠高が父高次の牌所として建立された寺院ですが、寛永十一年(1634)酒井忠勝が藩主のとき、父忠利の戒名から建康寺と改めました。
忠勝の没後二代藩主忠直が父忠勝の隠居名である空印をとって空印寺と名前を改めたのだそうです。曹洞宗のお寺です。
小浜藩主酒井家の菩提寺とパンフレットに書いてありましたのでお墓を捜したのですが、矢印はありましたが、どの墓地かは本堂の前ではわからず、タクシーの運転手さんに聞いても分かりません。勝手に入るわけにもいかず、残念ながら墓所までは行かないで、お寺さんのみお参りして帰りました。
小浜市男山2
拝観料 300円
電 話 0770-52-1936
京極高次は永禄六年(1563)生まれです。京極家は室町時代創設期からの名門でしたが、父の高吉は足利義昭につかえ、義昭と織田信長が対立した際出家し、守護大名の地位は家臣の浅井家にうばわれ、高次は美濃へ人質として送られ幼少期を過ごしました。(母は浅井久政の娘、京極マリア)
天正十年(1582)本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると高次は光秀に属し、山崎の戦いで、光秀が秀吉に討たれると高次は妹の嫁ぎ先である若狭の武田を頼って逃れました。
若狭の武田元明は自害し、妹は秀吉の側室になり、兄高次の嘆願をしたので許され、天正十二年(1584)近江高島郡の二千五百石をあたえられる。翌々年には五千石に加増、同年九州攻めの功により大溝城一万石を加増されています。
秀吉配下の武将として活躍し、天正十五年(1587)秀吉のあっせんで、織田信長の妹お市の方と浅井長政との娘お初を正妻として迎えます。
その後、関ヶ原の合戦では徳川方に加担し、その功あって若狭八万五千石の領主として小浜に入府しました。
小浜ではそれまでの後瀬山城を廃し、雲浜にあらたに小浜城の築城に着手しました。
又、現在に至る小浜の町割りを行った業績は大きいものです。
しかし、城の完成を見ずに慶長十四年(1609)四十七歳で亡くなりました。
京極高次は妹(豊臣秀吉の側室)、妻(淀君の妹)の七光りで出世したとも云われ、蛍大名とささやかれたそうです。